Saturday, April 18, 2020

ブルックリン奥地での自粛生活のつれづれ

少し時間が経った間に、日本も全国で緊急事態宣言になってしまった。8月の10周年記念UPAF、開催できるかな。人間、希望が必要なので、日本にいるマックスとのほぼ毎日のLINE会話では、今のところはやる方向で進めようということになっている。

今日は映画とは関係ない話になると思う。Siriに読ませたりして、運転やドライブのお供にどうぞ。

私はブルックリン奥地の黒人やヒスパニック系住人が多いエリアに住んでいるのだけど、この辺りは新型コロナウィルステストの陽性確率がニューヨーク市でもとりわけ高い方らしく(概して貧乏な有色人種エリアが高い)、外はまるで戦場。皆マスクをして、スーパーやディスカウントストアの営業時間も変わって、街角の小さな食料品店もレジの前に分厚いビニールの即席カーテンを貼って、お客との接触がないようにしている。スーパーの品揃えも心なしか薄い。牛乳を買いに2回出て、2回とも全乳がなくて悲しかった。レストランはもともとほとんどないんだけど、チャイニーズのテイクアウトはここ2週間以上は閉まっている。唯一開いているジャマイカ料理のテイクアウト店は、店内5人までと入場制限している。この街は、カリビアン系ブレイド専門店、ラテンアメリカ系セレブ髪型の店、おしゃれ剃り込み系の床屋、などなど、ヘアサロンにかけては原宿にも吉祥寺にも負けない。というより、それしかないのだが、ヘアサロンだらけの小さな駅前は全部シャッターが下りて閑散としている。いつも歩道にたむろしているナイジェリア人男性たちの輪もない。昨日、緊張したが、のっぴきならない事情で3週間以上ぶりに地下鉄に乗って白人の人が多く住むブルックリンのご近所に行った。うちの近所の路線は、なんと結構混んでいて、びっくりした。本数が減っているからだろうけれど、皆、マスクやゴム手袋をして、手すりに触らないように気をつけて、どこかへ向かっていた。乗り換えてお金持ちの住むエリアを通ったら、地下鉄は途端にまったくガラガラになった。家から仕事ができる人口が多く、車の保有率が高いからだろう。

ニューヨークにはコミュニティガーデンというものがたくさんある。形態は様々だけど、大抵は近所の人が共同セクションを一緒に世話しながら自分の畑を持って、好きなものを育てられる。前のアパートに越した時も道向かいにわりと大きなのが一つあって、仲間に入れてもらい、野菜作りの基本を覚えた。変わり始めていたネイバーフッドで、それを反映してメンバーは多様だった。そこのプレジデントは近所に長年住むユダヤ系アメリカ人のゲイのおじさんジョージで、私たちが越してくる数年前にパートナーを失っていて、もともとそのガーデンも、ドラッグの針やゴミだらけだった荒れた空き地を、その二人が中心になって80年代にオーガニックの土を入れて作ったものらしかった。彼は野菜にはあまり興味がなく、石と多年草と木の造園系の人で、園芸博士でいろいろ教えてもらった。近所のプロジェクト(低所得者住宅)に住む黒人のおじさんクラレンスはイチゴ作りの名人で、ホースのあちこちに穴を開けてちょろちょろ水を出す水漏れホースの技をコーチしてもらった。私よりちょと前に越してきたという白人のニューヨークタイムズ紙の記者のアンドレアはエネルギーの塊のような女性で、コンポストなどを活性化させて皆に元気をくれた。庭師を長くしているセルジオというラテン系のおじさんもいて、優しい人だった。そのブロックに家を持つイエメン人の名物おばさんは、頭を覆う黒いベールに、まるでそれ用にできているように携帯を挟み込んで、いつもアラビア語で話していた、というか、まくし立てていた? 畑はミントばかり。スペアミントをバカにし、お茶に一番美味しい品種を大事にしていた。一度家に呼ばれてミントティーをご馳走になった。家に帰るなり、まとっていた黒い布を、暑い暑いと全部脱ぎ捨てる姿がおかしく、一緒に笑った。非営利団体で働く穏やかなムスリム系の黒人女性ラヒーナや、南部出身でバラ名人の白人女性ジュリー、メキシコから移民してきた女性サラヒム、鳥博士で自然史博物館で展示などを担当しているポールもいた。いろんな人がいて、ガーデンパーティなどは楽しかったし、身の上話もそれなりに聞いた。私は日本の野菜をいろいろ育てた。きゅうり、しそ、ニラ、ゴボウ、春菊など。ポップコーン狂の娘が、電子レンジでポップできるバターべったりのポップコーンを植えたら、芽が出て実をつけて「得した!」と喜んだ年もあった。ある年、ガーデンのフェンスの外にあるカシの木の種が落ちて、うちの畑から芽が出た。木は畑で育ててはいけないルールだったから、娘が鉢に移して、鉢替えしながら育て、数年後には150センチくらいかな、当時6年生くらいでまだ小柄だった娘より背が高く成長していた。そのアパートには14年住んだから、娘はそこで育ったのだが、その途中に開発の波にやられて、私たちのコミュニティガーデンもブルドーザーで潰されてなくなってしまった。市役所や地域の公聴会で皆で戦ったけれど、娘もスピーチまでしたけれど、まるで歯が立たなかった。生垣の低木や柳や果物の木は、ブルックリンの他の地域団体やガーデンに電話して、持っていってもらった。花や土やガーデンツールは、ご近所さんや近くのガーデンの人たちに無償であげた。本当にたくさんの人が来て、全部持っていって、あっという間にガーデンは空っぽになっていった。私たちコミュニティガーデナーは、隅で抱き合って泣いた。鉢植えのカシの木の子どもは、最近ブルックリンに家を買って越してきたという感じの良いゲイカップルが、家の前の街路樹用の穴に何も生えていないから、と養子にもらっていってくれた。彼らのトラックを、娘は手を振って見送った。ジョージはガーデンがなくなると知って以来、すっかり気を落としてしまって顔を見せなくなり、寄付やギブアウェイは他のメンバーが全て取り仕切った。ブルドーザーが来る日の朝、毎年たわわに実をつけるモモの老木が最後に残っていて、とあるガーデンに運ぶ手はずになっていた。私が寄付などを主に担当していたから立ち会った。それ専門の非営利団体の人たちが大きな器具を持って来て、木の周りから注意深く根を掘り起こそうとしていた時、老木がピシピシっと音を立てて、縦に真っ二つに裂けた。コミュニティガーデンの叫びのように私には聞こえた。その数時間後にはブルドーザーが入ってきて、まったくカジュアルに、皆の畑のヘリに丁寧に積まれたレンガも、皆でネズミに苦心したコンポストの箱も、あっという間に潰して掘り起こして平地にしてしまった。それから数年間は、私は痛くて植物が見られなかった。今、それ以来初めてネットで調べたら、ここにアーカイブされていた。そういえば、私が写真をとってメールでメンバーにリポートしたのを、アンドレアがビデオにまとめてアップしていたんだっけ。ダイノソあティリんと記録に残してくれるとは、さすが新聞記者だ。私もこうやってブログで書いたら、何かの歴史に残せるかな。なくなってしまったガーデン、今思っても心が痛い。

それからも私たちのもと近所はますます開発が進み、バークレーズセンターというスタジアムができ、ブルックリン・ネッツの本拠地(今は女子プロバスケのニューヨーク・リバティもらしい)となって、夜な夜なバスケの試合やコンサートでいろいろな人が流入するようになった。昔からあった安くて美味しいレストランやダイナーは姿を消し、高くて洒落てて特に美味しくないレストランに週末は列ができた。Whole FoodsとAppleストアも建った。2017年の暮れ、3階建てで3家族が暮らす私たちの小さなビルのオーナーも、うちの階をリノベしてもっと家賃を高くすることに決め、それまでの倍以上の一月3,400ドルになるというので、急遽引っ越ししなくてはならなくなった。

今の近所は、まるで私がニューヨークに越してきた90年代初頭から時が止まったような、忘れられたフッドだ。レストランもMailbox Etc(郵便局がわりの少し割高な郵便屋)も古着屋もブティークもギフトショップも文房具屋もこましなスーパーやワインショップも、今まで当たり前に使っていたものがない。酒屋もチャイニーズのテイクアウトも、分厚い防弾ガラスで仕切られていて、ワインを手に取って選べる店はない。昔はこうだったなあと懐かしい気持ちになる。ニューヨークに越してきた当時は、留学生でブルックリンに住んでいたのは私だけで、橋を渡ってうちに遊びに来るのを友人たちに恐れられたものだった。予算的に住めるのがそこだったからなのだけど、でも実はいいところで、そんなに危ないわけでもなく、安全ではないけど、それはどこも似たようなもので、皆なぜそういうふうに言うんだろうと不思議に思っていた。今から思えば、単に黒人が多いというか、たくさんいるということが理由だったのかもしれないから、まったくひどい話だなあ。話を元に戻して、ここは安売り屋と教会とヘアサロンと託児所の街。私が知る限りでは、MTA(市営地下鉄やバスの会社)職員や看護婦、また Uber や LYFT の運転手として働く人が多いようだ。カリビアン系、アフリカン系、ラティーノ系の街。急行は止まらないが、少し歩けば3路線くらいに乗れる。前より家が広く光が入るのと、大きなコミュニティガーデンがすぐそばにあったので、アパート探しを始めてなんと2日目にもう決めてしまった。何度も引越ししているが、こんなことは初めて。当時、娘は大学3年生で他州の大学に行っていたし、もう子育ても終了で(あっという間だったなあ)、子どものためにいい学校に近い安全な地域を選ぶ必要もない。一年の半分を岡山で、後の半分をブルックリンで過ごすマックスさえ納得してくれるのなら、自分のフィーリングで決められる自由がいつの間にか戻っていたことに、改めて気がついた。正直、開発されてしまったブルックリンには飽きていた。相当変わっていると家族に言われるほどで、自分でも最近ではきっとそうなんだろうなあと思うようになった。嗅覚、というのか、あのコミュニティガーデンを通りから見たときに、あ、ここに住みたいと思ってしまったのだ。それから2年、いいところも悪いところも色々見えてきたこのフッドだが、今でも私は大好き。マックスも、それなりに気に入ってくれている様子(感謝)。娘はその後サンフランシスコで就職が決まって、頑張って働いている。彼女がここには慣れるチャンスがほどんどなく、住みやすかった「開けたブルックリン」とは大分違うので、彼女には申し訳ないが、もう大人だから分かってくれている。マンハッタンに仕事に出るには確実に20−30分地下鉄の時間が増えた。いわゆる治安は悪く、ギャングはいて、去年の夏には銃撃事件が家の目の前や角を曲がったところで何回か起こった(誰も死んではいないらしい)。90年代にも結構あったし、居合わせたことも数回あるので、どこにてもあると今だに思っているが、最近ニューヨークに越してきた若者たちはきっと大分違う感覚を持っているのだろうし、私よりずっと長くいて70年代や80年代を知っている先輩方はまたすごいものを見てきているんだろう。この近所のスーパーには、オーガニック食品の代わりに、スパイスや見たことないような根菜やチリペッパーなどが大充実している(その中にEdoという里芋もあって、これを煮っ転がしにすると、日本の里芋より少しピリリと辛味があって美味しく、マックスの好物。)。私はガーデン関係の人しか親しい付き合いはないのでよくわからないけど、皆、料理をよくするし、美味しい。カリブ海からの移民系が多いので、魚好き。近所に「フィッシングアソシエーション(釣りクラブ)」もあって、大量の日には、うちのすぐそばの角っこにクーラーボックス2個いっぱいのシーバス(スズキ)とポギー(鯛の仲間)を置き、プレジデント(黒人のおっちゃん)が自らさばいて売ってくれる。さばき方も丁寧で魚への愛が感じられる。フロントヤードカルチャーで、天気が良くなると皆、家族や友達と家の前に出て夜遅くまでパーティだ。夏には毎週、家の前にカノピー(天幕)を張ったり歩道に折りたたみ椅子を出してバーベキューをしている。うるさい日は本当にうるさい。コロナで自粛の今も、週末だからか、向かいの家から大音量のラップとソウルが聞こえている。暖かい日には、中庭側からはサルサ攻撃だ。でも、犬の散歩でよく歩く近所では、昔のニューヨークみたいに皆があいさつをする。自分たちがここの元々の住人たちとは違うから目立ってしまうことは知っているから、私自身が、リスペクトを見せるために挨拶は特に大切と思っているのもある(あいさつおばさんでーす)。でも、私がいようがいまいが、皆とにかく、よくあいさつをしている。立ち話もする。時には喧嘩もよく聞こえてくる。夜遅くまでのパーティ音楽はかなり嫌だけど、皆がワイワイガヤガヤしているのは好き。あいさつ文化は早く戻ってほしいなあ。

寂しく家に一人でいる今だから、「new normal(新しい普通とか新しい日常)」とやらに抵抗したい気持ちで、楽しかった私の日常を、引き続き振り返るね。早く本当の普通の日常が帰ってきて欲しい。思った通りにコミュニティガーデンは最高で、自分は本当にラッキーだと思っている。地域によってこうも違うものかと驚いたくらい、前のガーデンとはいろんなことが違う。2年前の3月、初めて入った時には、タンポポが咲き乱れて、夢の中にいるみたいだった。広いガーデンの真ん中にポツンと一つある悲しい水道は何年も壊れたままで、直すお金がないから、普段は大きなバケツを何個も置いて、雨水を溜め、それで植物に水をあげている。雨水が勝手に溜まる巨大な水槽も置いてあり、ガジボと呼ばれる屋根付きの建物もあって、そこの屋根のトイを伝って雨水が溜まる仕掛けもある。また、雨が少なかったり、できる時には、歩道にある消火栓に特別なリングを装着して、ガーデンからフェンスの隙間を通してひっぱってきた太いホースをつなげ、ホースのもう片方は、巨大水槽からチョロリと出ている冗談みたいな細いホースにつなげて、消火栓からの物凄い勢いの水を逆流?させて水槽に溜める。消火栓にホースがつながっている日は、皆が喜んで自分の畑にもそれで水を撒く。プレジデントも副プレジデントも黒人のおばちゃん(というか、おばあちゃん?)で、それぞれに4−5個の畑/花壇を独占している。彼女らが90年代に作ったガーデンらしい。Green Thumbという非営利団体に守られているから、ブルドーザーに壊される心配がないと聞いて、ほっとした。この辺りは、食の貧しい貧困地区に都会の野菜栽培を、という運動の一環で、こうして守れているガーデンが多く、その長は大抵パワフルな黒人女性たちだ。オーガニックの土やコンポストも無償でその非営利団体から毎年供給されるし、その他のグリーン系非営利団体やブルックリン植物園などが主催する「野菜の苗あげます会」などには毎年何人かで行き、それを皆で分ける。おばちゃんたちは、芝刈りや消火栓から水を引くのはラティーノの男たちの仕事と思っており、彼女たちの人の使い方はある意味アートの世界で恐れ入る。ラティーノの男たちはメキシコ、ペルー、プエルトリコからの人たちで、黒人のおばちゃんたちは彼らを国の名前で呼んだりしている。ラティーノ系はその陰で、黒人のおばちゃんたちの中傷に余念がない。でも、長年の付き合いで、そんなキツい言い方?とドキドキすることもままあるが、実は皆、信頼しあっていて、仲がいい。誰もがそれぞれの文化の料理に使う野菜作りに真剣で、トマトや、ズッキーニ、パクチー、チリペッパー、ナス、ケール、それにカリブ系の人がよく食べるカラルーという葉野菜やメキシコ系の根菜ヒカマなどなど、夏は野菜を買う必要がない。たくさん取れたら、惜しみなく分けてくれる。それと、特にラティーノ系のご家族たちはガーデン内での家族バーベキューが大好きで、最初に来た時、5つくらいガス式の大型バーベキューグリルがあって、これは誰の?と聞いたら、これはホゼでこれはフランで、あっちはメキシカンの、という風に、すべて個人所有で鍵がかけられていて、びっくりした。コミュニティーガーデンの鍵=プライベート・バーベキューへの鍵だったんだ!大きなスピーカー持参でやってくる家族もいる。夏の暗くなる前、私が畑仕事に行くと、コーンやホットドック、ビールをすすめてくれる。地域が開発されてプログレッシブな白人の人口が増えると必ずそう変わってしまう、デモクラシーに基づく公平とか、分担性みたいなルールはほぼない。やりたい人がやるが、やらない人への嫌味も陰口もすごい(笑)。入った当初は、一人で5つも畑を独占?とか、雨水でガーデニング?と驚いたが、今ではすっかり慣れ、雨水の方がずっと植物にいいことを知っているし、ベティ(プレジデント)が5つの畑でワンサカ野菜を育てていても、彼女はガーデン全体の面倒をいつも見ているガーデンのアーキテクトだから、それで当然だと思う。私は今ではすっかり娘のように可愛がってもらっていて、新人のくせにヒイキされて2つの畑をもらっているから、文句は言いません。ベティは植物とコミュニケートできるというか、植物の名前は知らなくても、勘で育ててしまう。でも、私がさっさと消火栓からの水の引き方をプエルトリカンのホゼから習ってできるようになると、おばちゃんたちは驚きつつ嬉しそうに、いつガーデンに今度行くかと夏には電話をかけてくる。パソコンやスマホがない人も結構いるので、コミュニケーションは電話か、ガーデンの掲示板だ。皆ガーデンが大好きで、ホゼなんて、一人で夏の夕方、椅子に座ってぼーっとそこに何時間でもいるそうだ(だったら掃除したら?とベティなら絶対言う)。

今年は、パンデミックでコミュニティガーデンも開放してはいけないというルールになっている。メンバーは入っていいのに、ベティが落ち葉を自分の畑に敷いた以外、まだ誰も何もしていないようなのだ。一昨日、私もシーズンに入って初めてちゃんと行って、ガーデンの荒れ様に驚いた。そこら中が、膝くらいに伸びたミントの紫の花と、触るとかゆいベタベタの蔓性の植物に完全に支配されていた。野良猫たちが、何の用?と私をいぶかしげに遠巻きに見にくる。その中に、チューリップやリンゴの花が咲き乱れていた。水仙はもうほぼ終わりで、誰が見てあげたんだろうと思った。とりあえずは自分の畑を片付け、雑草を抜き、土をひっくり返す準備はした。去年のブロッコリーが生きていて、小さな花をポコポコとつけていたので、摘んだ。ダイナソーケールも生きていて、間延びした太く茶色い茎から新しい葉がたくさん出てきたので、食べられる葉だけ積んで、茎を切って整理した。自分の畑の周りの雑草も抜いた。コンポストができていたので、スコップですくって手押し車で畑まで運んだ。久しぶりに労働をして汗をかいて、気持ちがよかった。ニューヨークがロックダウンになってもうすぐひと月がたつ。こんなささいなことが、なんて嬉しいんだろう。ガーデナーの皆も出てくればいいのに。ソーシャルディスタンスを保てば一緒に働ける。天気のいい日があったら、ベティを誘ってみようと思った。2つの箱式のコンポストの整理をする必要があるし、そこら中の雑草を抜き、通りから投げられてたまったゴミも拾いたい。真実も現実も見えにくい時代に生きて、リーマンショックやフクシマや今回のこと、2つの国の狭間で生きながら、時代の波にその都度呑まれ、モロに経済的な影響を受ける。健康でいられるんだからと感謝しつつ、もっと大変な人たちのことを考えなきゃと思いつつ、自分の力のなさに、大海の中で点になって消えてしまいそうな気持ちになる。でも、自分勝手に思えるけれど、少しの時間、意識を別のところに持っていくのって、すごくいい。

ベティはイケてて面白い人なので、もう少しお話したい。2年前の今頃、最初のガーデンミーティングに参加した時、ベティがお祈りを捧げてから始まったので、まずたまげた。信教の自由が保証されている大都会のニューヨークで、あり得ないと思ったが、考えてみれば全員がカリビアン系移民かアフリカンアメリカンかラテンアメリカからの移民で、不思議はない、とも言える。今はムスリム教徒のインド人女性もいるけれど、その日はいなかった。私はクリスチャンじゃないので、アーメンは言わなかったら、ベティがギロリと睨み、「神を信じないの?」と言われた。「I'm a cultural Buddhist」と答えたら、ふぅん、ニヤリという顔で終わった。ニューヨークのことを知っていたつもりで、何も知らないのだと思うと、新しい場所での生活が嬉しくなったのを覚えている。コンポストに入れる枝などをナギナタで切るやり方も、ベティから習った。(おばあちゃんだから)私がやると申し出たつもりだったが、悪戦苦闘していると、ちょっと貸してと言って私からナギナタを取り、すごい速さで肘をカクカク動かして細かく切った。セントビンセント島という小さなカリブの島出身の彼女は、お父さんが農家で、ナギナタでサトウキビを切って育ったのだと言う。「肘に油を差したら、お嬢ちゃん」と言われた。お嬢ちゃんって歳じゃないんだけど、その時は年齢も何も言っていなかったから、わけのわからない年齢不詳の小さなアジア人がやってきたと思われたに違いない。ベティはどちらかと言うと小柄で、短髪で、顔はいかりや長介に似ている(ごめん、ベティ)。なんと今だにイギリス領の島育ちだからイギリスで看護婦になる学校に行き、子どもたちをイギリスに残したままアメリカに出稼ぎに渡ったという。看護婦の仕事が見つかるまで何年かは、住み込みの家政婦の仕事をしていたのが悔しかったと、時々当時の話をする。ダンナが行ってくれなかったから自分が来なければならなかったと。その後3人の子どもたちをアメリカに呼び寄せ、離婚して、一人で看護婦をしながら育て上げた。その子どもたちの中で自立しているのは一人だけで、あとはまだ同居している。子どもたちの仕事がない、というのが、ガーデン関係の会合などで会う黒人女性たちから聞く共通の悩みのようだ。ベティ自身は今は隠居の身で、教会関係や組合関係の割引を使いまくって、ズンバやヨガのクラスをとったりしている。もっと長く仕事がしたかったのに、早期定年退職を迫られ損をしたとも言っている。

去年の夏、ガーデンで野菜の盗難が続いた。私もやっと大きく赤くなったトマトが2つだけあったのに、気付いたら両方なくなっていた。ラティーノのおじさんの一人が、絶対プロジェクトに住むインド人の女性だと言う。私の畑の脇に彼女がしゃがみ込んでじっと見ている写真までと多くから撮って、ほら、じっと見ているだろ。黒い衣にはポケットがたくさんあってその中に入れているんだと言う。彼女はあまりガーデンに来ないので、私はその頃にはほぼ面識がなかった。その前のシーズンに彼女がちっとも自分の畑の世話もせず、周りの雑草も刈らないので、通路にも私の畑の方にもかぼちゃのツルが伸び放題で足の踏み場がなくなり、一度腹が立って、私が通路に出ているツルを全部切ってしまった時があった。刈った雑草やカボチャの葉っぱの山は、自分で掃除しろと言うメッセージを込めて、そこに置いておいた。ベティが私に、どうして刈っちゃったの?通路に出ている部分にかぼちゃの赤ちゃんができていて、通路の野菜は誰が採ってもいいから狙っていたのに、と言う。そんなルールがあったとは(たぶんベティが作ったルールだ)。インド人の女性とそのお母さんがメンバーだが、彼らはかぼちゃの葉っぱ部分を食べるので、葉っぱだけ摘んで帰るのだそうだ。ホゼに写真を見せられて、通路カボチャの仕返しか?と思っていた。でも、盗難はその後も続き、皆気分が悪い。ある日ベティに会ったら、気持ち悪いから、インド人女性に会ったときに「野菜盗んでいる?」と聞いたと言う。さすがベティ。盗っていない、とはっきり言っていたから彼女を信じるとベティが言うので、私も信じることにした。次のミーティングの時に彼女も来ていたので、昨年のカボチャの件を謝り、でも通路は掃除してね、と伝えた。彼女はブロークンな英語で、大丈夫よ、気にしてないわ、それより私、野菜盗っていない、と言った。それから仲良くなって(数少ないアジア人同志だもん)、日本のきゅうりとプチトマトをあげたら、カボチャの葉っぱをくれた。炒め物にしたら、なかなかイケた。誰が犯人だったのかは、分からない。

一昨年の秋に、40を越えてからニューヨークに移民してきた勇気ある日本の女友達が、数ヶ月間うちの空いている娘の部屋に住んでいて、その時にベティをディナーに招待した。その旧友は、私が日本で大学生だった時にまだ高1で、私が彼女とお姉さん2人の家庭教師をしていて、当時も今も、妹みたいに可愛がっている。その後1年間イギリスでアートを学び、ジュエリーデザイナーとして日本でしっかりビジネスしていたが、一念発起してニューヨークにやってきた。クリエイティブな彼女は、料理もうまい。ベティはペスカタリアン(肉は食べないが魚は食べる人)なので、えびのお料理を旧友が作ってくれたと思う。私も何か作ったが忘れてしまった。知らない人の前で緊張しているのか、いつもより一層ブスッとしているベティ。でも、時折つぶやくツッコミやギャグが面白く、おかわりは?と聞くと「食べてもいいわよ」と言いながらベティはモリモリ食べ、ディナーが終わる頃には打ち解けて笑顔になった。その時にその友人が、いかりや長介に似ていると言ったんだった。どこかで見た顔だとは思っていたので、スッキリした。

Green ThumbやGreen Gorillasなど、うちのガーデンはベティのおかげ(せい?)でグリーン系非営利団体にいろいろ所属している。タダでもらえるものが多いからだと思う。でもその代わり、ミーティングやワークショップに出席しなくてはならず、月1回のガーデンミーティングは大抵、ベティが長々とワークショップのスケジュールを読み上げ(サイトを見れば全部出ているんだけどね)、誰がどのワークショップに出席できるかのプレッシャー合戦で終わる。いつからか、私が書記になっている。ラティーノのおじさんたちは、こういうのにはからっきし参加する気もないから、おし黙って終わるまで聞いている。結局、染め物やタイルモザイク作りのワークショップに私とベティで出ることも多く、行く前は面倒だなと思うが、行けば楽しい。ベティはトイレが近いので(私たちが払うガーデンの年20ドルの会費のほとんどは、ガーデン内にシーズン中だけ置く簡易トイレの費用でなくなる)、出かけるとよく一緒にトイレを探すハメになる。雨が降ったり、風が吹いたり、洗い物をしながら水の音を聞いているとトイレに行きたくなるそうだ。下ネタついでに、ガーデンの口座があるダウンタウン・ブルックリンの銀行にも何度かベティと一緒に行ったが、彼女のかかりつけの医者がその横のビルにあり、ある時、検便を届けなくてはならないから、と、犬のウンコを入れるみたいなの黒いビニール袋を持ち歩いている。ちょっと待っててと言われ、銀行で待っていると、ウンコを渡すだけでも登録して待合室で待たなければならないらしいから後にする、と、銀行でウンコの袋を持って恥ずかしそうにしている。子どもの頃の検便って、確かテープみたいのじゃなかったっけ?と思ったが、言ってもしょうがないので何も言わなかった。年次総会みたいな大きなのは、ディナーが出るので、3ー4人(いつも黒人のおばちゃんたちと私)で行く。というか、最初の時、ディナー会があるから行かないかと誘われ、行ってみたらガッツリ年次総会で、私一人で驚いたこともあった。大体、今年のディナーはケチだった、とかの文句を聞かされることになる。ベティは必ずビニール袋やナプキン持参で、そこに出るクッキーなどを包んで帰る。もう一人やはり看護婦のリズは、総会中も地下鉄の中も爆睡。疲れているんだろうなあと思う。今年のプログラムの説明や、各ガーデンでの取り組みなどのアンケートには目もくれず、私がベティに何を書こうか相談すると「分からないよ」の一言で、皆白紙で出す。真面目な私は焦って、でもこう言っていたし、とか言うと、「そんなこと言ってた?聞き逃したよ」で終わり。会場に置いてあるハンドジェルやクリームを試し、これはラベンダーでいい匂いとか、そういう時には皆すっかり目を覚ましてキャッキャ騒いでいる。道中もおかしく、おばちゃんたちは安売り屋の前を通れば寄らずにはいられないし、ニューヨークの地下鉄の駅のエレベーターの場所を完全に把握している。この人たちこそ本物のニューヨーカーだと、いつも思う。会話によく現れるのは、元ダン(my old man)や今のボーイフレンド(my man)の悪口や、近所のホーダー(ものを貯めて捨てられない人)や名物ばあさんの噂話。おかげでご近所の事情がよくわかる。副プレジデントのサラも大好きな人なのだが、苗木ギブアウェイなどで少し遠出の必要がある時は、サラの「友達」の剃り込みがイケてるギャング風の若者が運転手として登場したり、手首が悪いという理由で近所の黒人の男の人たちに自分の畑を耕してもらったりしている。「Yo What'zup?」と言いながら一緒に畑を耕す。きっとサラは、ギャングの元妻とか、何かすごい立場の人なのだと思う。この人が作るミートボールがハンパなく美味しく、一昨年の私の誕生会をガーデンでやった時に、たまたま上に住んでいたイタリアのシシリー島の人もついでに呼んであげたのだが、サラのミートボールを心から崇拝していた。ベティもサラも、私には考えもつかなかったが、固形燃料やら大きなアルミのお皿やらテーブルクロスやら、いろんなものを持ってきて、誕生日を祝ってくれ、最後の掃除までいてくれた。教会のイベントでこういうのは慣れているらしかった。とても嬉しかった。サラはカジノ好きで、クイーンズにあるカジノにいつか連れて行ってくれると言っている。ペニー(1円玉)マシーンしかやらないそうで、それで1000ドル儲けたこともあるとか。今年は、カジノはおろか、非営利団体の総会やワークショップも、無料の土やコンポストの配給も、野菜の苗のギブアウェイも、すべて中止。それできっと、皆やる気をなくして、ガーデンに来ていないのかもしれない。

1週間前のある日、ベティから電話があって、モッツアレラチーズがあるから少しいるか、と言う。どんな種類?生?と聞いたら、「分かんないよ、ピザに乗せるやつ」と言う。「Sure」と返事し、翌朝パンを焼いて持って行った。マスクをして、彼女のアパートのドアのところで、2メートルの距離を保ちながらの物々交換。「マスクのつけ方が正しくない」とすかさず看護婦に指摘される。でも2人とも、顔を合わせるのは3週間ぶりくらいで、嬉しい。受け取ったビニール袋は、私が日本のお土産を数ヶ月前に入れて渡したデューティーフリーの袋。ずっしりと重い。中を見ると、巨大なフレッシュモッツアレラの塊が。それと2つ青りんごも。どこでゲットしたか尋ねる。歩いて5分くらいの大通り沿いに、「キャンペーン・アゲインスト・ハンガー(飢餓撲滅キャンペーン)」という看板がかかったオフィスがある。そこによく列ができていたのは、通りがかった時に何度か見て知っていた。ベティ曰く、通常は登録するのに並ばなくてはならないんだけど、今はソーシャルディスタンシングのせいで登録いらずで並ばなくてよく、ただ入って必要な食料をもらってこられたらしい。それで、リンゴや野菜や缶詰と一緒に、なんと直径30センチ以上ある大きなモッツアレラの玉を丸ごといただいてきたようだ。きっと普段は切り分けるけれど、新型コロナの今なので、そのままだったのだと思う。どうやって持って帰ってきたんだろう。いつか地下鉄で銀行に一緒に行った時、帰りに買い物に行くからと、階段もラクラク登れる3つ車輪付きの秘密兵器カートを自慢げに持っていたから、きっとそれで行ったんだな。新鮮で美味しいモッツアレラで、焼きたてパンに山のようにのせ、オリーブオイルとちょっといい塩をかけて食べた。新鮮なトマトとバジルがあればな、と思った。私一人ではとても食べきらないから、上の階の家主さん一家に半分贈呈した。家主さん一家は家主さんがイスラエル人でご夫人がトルコ人、小さなお子さんが2人。どちらも地中海の方々でとても喜んでくれて、お礼にと今度は家主さんが焼いたハラーブレッドというユダヤ人のパンと、ご夫人の手作りフムスをいただいた。美味しかった。家主さんはプロのパン屋さんなので、私のパンなどはとてもあげられないが、その後に別の種類のパンもいただいて、私はガーデンで摘んだ細ネギとチューリップをあげた。4歳と6歳の子どもたちがパンを持ってきてくれた時、「ソーシャルディスタンスを忘れないで」と子どもたちに上の階から声がかけられる。どんな時代に育っているのか。下の階のご家族は出産を控えていることもあって、10日ほど前だったか、ダンナの実家のミシガンに車で避難した。逃げられる人はニューヨークを出たようだ。でも、そんな今だからこそ、ニューヨークに残っている人たちの間では、こういう手作り品や美味しい食べ物の交換が、心に染みる。ベティのモッツアレラに、そして「キャンペーン・アゲインスト・ハンガー」に感謝。

自分が移り住んできたってことは、きっと10年もしたら、ここも変わってしまうんだろうなあと、申し訳ない気持ちになる。2年間ですでに、家が結構売りに出され、白人の皆さんの姿が増えた。今はたぶんアーティストやミュージシャンや、安く家を買いたい(と言っても異常に高いけど)子育て中の勤め人って感じ。近くに大きなコンドミニアムも建設中だ。なるべく変えずに馴染めたらいいけれど。皆さんも、味のあるいいご近所に暮らしていますように。自粛生活が長くなると、ご近所さんとの付き合いが本当にありがたいです。長文をお読みいただき、ありがとうございました。


Saturday, March 21, 2020

中国女性監督インディペンデント映画 『女导演』

今回は中国インディペンデント映画について少し書きます。

コロナウイルスで私の教えている大学もオンライン授業に切り替わった。すべてリモートで、娘はサンフランシスコで、夫は日本で働いているし、私の家族は離れて暮らしていて、先日アメリカのトラベルバンはレベル4に上がって、ニューヨークは”Shelter in Place”だし、なんだか不安。こんな時は家族で一緒にいたいよね。でも昨日スーパーに買い物に行ったら、レジのヒスパニック系のおばちゃんや近所の黒人のおじさんたちが普段より優しかった気がした。皆、人寂しいのかな。昨夜は金曜の晩で3月にしては暖かくて、ブルックリンの私が暮らすブロックでは、いつもならフロントヤード(家の前)パーティが数カ所で行われたはず。同じ3−4カ所から音楽は聞こえてたけど、屋内からでドアも閉まってて、心なしか普段より音量が低かった笑。このフッド流の自粛。

家にいる時間が増えて、映画配給団体や制作者が作品を無料配信したり、アドビなども3ヶ月ソフト無料登録などを展開し始めた。中国のインディペンデント・ドキュメンタリー作品を北米に配信しているdGenerate もその一つで、30日間無料配信(クーポンコード:1MONTH)になったので、勢いに乗って(何の勢いじゃ?)のぞいてみることにした。
『女导演』より

『女演 Female Directors』は、2012年の明明(ヤン・ミンミン)監督のデビュー作品。日本では公開されていないけど、題の直訳は「女性監督」。8年前の北京。女友達のミンとユエは大学で映画制作(監督コース)を専攻したが、卒業後仕事はなく、資金もないので、1台のカメラでお互いを撮影し合うことにする。自由奔放でホルモン出っ放しの危なっかしいユエと、一見堅そうなのにキレると怖そうなミン(監督自身)。映画、セックス、恋愛、ライバル意識、北京市民の戸籍、成功、田舎の家族、さまざまなテーマが2人のきわどい会話と視線と若い体と行動の中に現れては消え、若い女の子特有のドラマ性とスピードで2人の関係も微妙に移り変わっていく。北京の街を舞台にしたリアリティTVとドキュメンタリーのミックスが設定で、2人がどこまでお互いに演技または演出しているのか、実はすべてが虚構かもしれないのがおもしろさ。

道端の野菜売りがひしめく中でミンがダンスするシーン(ミン監督は真剣にダンスをずっとやって育ってきたらしい)や、道路の脇で麺を啜るシーンなど、現実の北京の街がそこここに現れる中で物語は展開していく。低予算映画の醍醐味かな。幸運にも若くて可愛いから、北京の戸籍のため、しいては未来の自分の子のために、力のある男に頼る。映画も作りたいし。これって、誰でもやることでしょ?全く違う2人だけどそこは共通で、それが2人がつながっていく中で少しづつ、それぞれに、一緒に、変化していく。
ユエ 『女导演』より
中国映画を世界的に有名にしたのは、文化大革命後に再開した北京電影学院の最初の卒業生でエピックドラマ長編を80年台に多くつくった第五世代の監督たち。赤や黄色を強調した独特の色彩感覚と批判精神で、中国近代史を振り返る名作を多く残した。代表監督は張芸謀(チャン・イーモウ)や陳凱歌(チェン・カイコー)などで、有名な作品には『紅いコーリャン』、さらば、わが愛/覇王別姫』など。この世代のムーブメントは、天安門事件(1989年)で終了とされ、その後世界に散った第五世代監督たちは、今は中国に戻ったりして大御所になっている(チャン・イーモウは2008年北京オリンピックの開会式・閉会式の演出も務めている)。

その後、時代の振り返りよりも変わりゆく今の中国に注目した、賈樟柯ジャ・ジャンクー)や(ロウ・イエ)などのいわゆる第六世代が2000年前後に登場する。彼らの特徴は、低予算で普段の風景を活用したドキュメンタリータッチで、イタリアンネオリアリズモ風に役者と素人を混ぜたりする。テーマは、資本主義に走る中国への批判やグローバリゼーションのせいで都市集中する中国の実態など。都市部で作られる作品が多い。

それと並行して、90年台にはアンダーグラウンドのドキュメンタリー・ムーブメントが生まれた。最初の作品は1990年の呉文光(ウー・ウェングアン)の『最後の夢想家たち(流浪北京)』。中国では故郷とは別の街の居住許可証(それがあれば正規に働けるし、家も借りられる)を取るのは非常に難しいと聞く。北京の居住許可証はアメリカの永住権所得より難しいらしい。この作品では、市民権なく北京に暮らす5人の農村出身の若い芸術家たちが、夢や北京でのサバイバル生活について赤裸々に語る。すべて手持ちのカメラで、狭い家の中で撮られる映像は、時代の息吹が伝わって来る感じにリアル。ドキュメンタリー作家は中国当局から目をつけられやすくて、ウー氏もその後映画制作禁止になったが、アンダーグラウンドで制作を続けた。アメリカでは『江湖』(Jiang Hu: Life on the Road)という1999年作品が図書館に流通しているので見たが、やはり農村出身の若者たちを集めて旅をする見世物の生活を追ったドキュメンタリーで、とてもおもしろかった。今は、ドキュメンタリーのワークショップなどを各地で開催しているようで、私の生徒で台湾からの大学院生も、都市計画が専門で仕事もしていたが、台湾で彼のワークショップを取って開眼し、ドキュメンタリーの道を選んだようだ。ウー氏はローカルテレビで制作もしていると聞いた気がするが、詳しくは知らない。中国のテレビはすべて党の息がかかっていて、中国本土出身の生徒たちは皆「プロパガンダ」TVと呼んでいる。卒業後中国に帰ったら、生きていくためにそれを選ぶしかない、とも言っている。

ヤン・ミンミン監督
ヤン・ミンミンに話を戻すと、彼女たちの属す世代は第六世代の後の“d-generation”(デジタル世代)で、第六世代が開拓した変わりゆく中国のテーマを、さらに等身大に、手軽なデジタル機材を駆使して作品をつくっている。『女演 Female Directors』も、カメラ1台と出演者2名(うち一人は監督)の、43分の超低予算作品。国内の映画祭で成功を収めたのがきっかけで、楊超 (ヤンチャオ)監督(2016『長江 愛の詩』など)に目をかけられ、2018年には初の長編『柔情史 Girls Always Happy』をつくっている。出身は中国戯曲学院で、ここは京劇教育の最高機関らしい。つまり、第五世代までは北京電影学院が中心だったのが、第六世代以降は映画学部が他の学校にも増えて、多様な監督が制作を始めたということだと思う。d-denerationの作品は、ドキュメンタリーとドラマのジャンルを超えるアバンガルドな作品や、検閲で大っぴらに撮影できないことを逆に武器にして家の中や家族から中国を浮き彫りにする作品が多いようだ。そうして制作が民主化され多様化すると、政府の圧力もさらに強まり、中国では見せられないから、西欧や他のアジア諸国の映画祭で見せたり、世界中に散らばる中国系ディアスポラや中国映画に興味を持つ人々に見せる場を作ろうという動きになっている。

そしてこの世代の作品を北米に配給しているのが、前述のdGenerate。今ではかなりの数の作品をオンライン配給していて、アメリカの中国映画研究にはかなりの貢献をしているし、また制作者にとっても作品を世界に見せ、収入を少しでも増やす重要な場になっていると思う。北京のインディペンデント映画祭が数年前には当局の圧力で中止にさせられた話を聞いたし、dGenerateのサイトもシャットダウンされたりしている過去もある。ジャ・ジャンクーの書いた第六世代についての文章を載せたページが以前は見れたのに、今はもう見られなくなっていた。図書館経由でどうにか手に入れ、授業で使うつもりでいる。dGenerateのサイトは別に移って素敵なものになっている。中国政府の手の届かない方法を見つけたのかな。団体の歴史もそこから見られるようだ。ブログサイトをチラリと見たら、オバマの支援で作られたドキュメンタリーの『アメリカン・ファクトリー』への中国人視点からの批評を中国系か中国人のライターが載せていて、読むのが楽しみ。これは、オハイオ州のもとGM(ゼネラルモーターズ、アメリカ人の誇りだった)工場を中国の億万長者が買い、中国人の監督下で現地のアメリカ人が工場で働く姿を追った作品で、Netflixオリジナル)で、日本からも見られる。かなりおもしろかった。監督はベテランのアメリカ白人カップルで、特に女性の方のジュリア・ライカートは、アメリカ第2派フェミニズム伝説的作品の『Growing Up Female』(1970年)の監督としても有名。

また話がずれて、失礼。中国映画の第六世代も新ドキュメンタリームーブメントも、名が知られているのは男性監督が多いのだが(いつものことだが)、女性監督がいなかったわけではもちろんない。dGenerateのような配給ルートがあるからこそ、ヤン・ミンミンも含め、女性監督も頑張っているのを知れて嬉しい。ヤン・ミンミン監督の次作の『Girls Always Happy』もこのサイトで見られる。30日無料の間に、他の女性監督の作品も開拓する予定。ずっと見たかったが見れていない2005年のLiu Jiayin(当時23歳)の作品『Oxhide(牛皮)』(2005年、ベルリン映画祭・香港映画祭・バンクーバー映画祭で受賞)が見られるか調べたら、dGenerate YouTubeチャンネルに予告編はあるけど本編は配給されていなかった。でもその続き?の2012年作品『Oxhide2』はある!探してみたら、『Oxhide』はNYUライブラリを通してAlexander Street という教育関係のオンライン配給会社で今は見られるようだ。つまり、米国などの配給会社がピックアップするまでのご紹介サイトとしての映画祭的役割も持っているのだと思う。なるほど〜。『Oxhide』、日本では未公開なのかな?日本語でざっと検索しても見つからなかった。

UPAFでは、日本に流通しにくいマイノリティ監督の作品やニュースに出てこない国々や人々の生き様を知れる作品を中心にプログラムしてきた。UPAFdGenerateみたいな配給ルートになれたらいいな。


Saturday, March 14, 2020

おすすめ新作ブラジル映画『Bacurau』

今回はカンヌ受賞作の新しいブラジル映画『Bacurau』をご紹介します。

昨日、めちゃくちゃいい作品を見ました。ブルックリンのBrooklyn Academy of Music (BAM)という、オペラや舞台上演や映画上映をする立派な老舗のアートベニュー。作品名(ポルトガル語)はBacurau(バクラウ)、日本語の意味はなんと、よだか!そう、あの宮沢賢治の「よだかの星」のよだかです。それだけでも、日本人の心にグッときちゃいます。小学校4年生のクラスの文化祭で劇もやり、私は星2か星3か星4の役だったと思います(笑)。ブラジルの2019年のインディードラマ作品で、監督は Kleber Mendonça Filho(クレベール・メンドンサ・フィリオ)と Juliano Dornelles(ジュリアノ・ドネルス)。カンヌの審査員賞(パルムドールは「パラサイト」が受賞)をとった作品です。日本にも来そうな気がするので、シェアします。
Bacurau, borrowed from www.simbasible.com


舞台はブラジル北東の架空の小村バクラウ。IMDbの短いあらすじをざっと訳すと、「近未来のブラジルで、テレサは 村の長老だった祖母の葬式に参列するため、生まれ故郷の村に帰ってくる。そこで沸き起こる一連の不吉な事件に、住民達が立ち上がる。」これではよさが伝わらないのだけれど、まずは近未来性。映画の最初の頃に出てくるテロップで、舞台は数年後のブラジルであることがわかる。そう、数年後。バクラウの住民は、先住民とポルトガル人とアフリカから連れてこられた奴隷の血が入り混じった、本当に色とりどりの人たち。肌の色も髪の色やキンキーさも、その雑多感は見事で魅力的。褐色でアフロヘアのテレサは科学者、白い肌で直毛の老女医は亡くなった祖母の友人、カウボーイみたいなギター弾きもいれば、小さなバーを経営する母と息子もいるし、ギャングの総長っぽいお尋ね者の殺人鬼もいる。村外れにある売春小屋の娼婦やトランスの一座も、必要なサービスを提供する労働者として村の面々の雑多感にすっぽり溶け込んでいる。心なしかサチュレイトされた映像は、肌が生々しく匂ってくる様な質感で、しかも西部劇とサイエンスフィクションの混じった何とも言えない雰囲気を漂わす演出が実にうまい。ネタバレを避けたいのであまり言えないけれど、その村の面々と全く対照的に描かれるもう一つのグループがいて、そいつらの多くは世界中の視聴者になじみのある顔をして、馴染みのある言語をしゃべっているのだが、この作品の中ではそれが異様に見え異様に聞こえるようにうまく描かれている。この一団が悪者で、村に不吉な事件を巻き起こす。もう一人登場するのが、州知事か市長か忘れてしまったけど、土地の有力者で政治家。ダムを止め、村に水が来ないようにした張本人で、村人たちに憎まれているブラジル人。つまり、これから数年後のブラジルという近未来の設定で、人種差別・自然資源の悪用・少数部族の虐殺など、現実のブラジルが抱えてきたネオコロニアルの状況を、見事に描いている。

サードシネマ*の授業とその準備を通じて、ブラジル映画をけっこう見てきたが、その幅の広さとイマジネーションの大きさには脱帽する。CIAの力添えでクーデターを起こした軍事独裁政権下の6070年代に作られた傑作の多くが、検閲を逃れるために、宣教師がやってきた16世記の人食い先住民(フランス人を食べちゃう)の村を描いたり、ヨーロッパからの植民者に尽くした“模範的”な先住民女性の民話になぞらえたりして、当時の政権を批判している。この作品も、近未来フィクションの設定を通じて、(ある種のクーデターを起こして)昨年1月から大統領に就任しているボルソナロ(女性・LGBTQIA+・先住民・黒人差別者で、西側諸国の石油会社や木材会社を優遇する資源開発推進派と言われている)と、オリガーキーと呼ばれる国の政治と資源を牛耳る少数の富裕層、そしてそこから利を得ようとする西側の白人を批判しているのは明らか。しかも、この小村の雑多で色とりどりな労働者層の人々こそが追い詰められる本当のブラジルで、これまで同じように追い詰められ人知れず虐殺されてきたであろうブラジル先住民への共鳴も表現していると、私には見えた。そして人物像や映像に、過去の映画へのトリビュートも見られた気がする。テレサを乗せた水タンクのトラックが街道を爆走するシーンは『イラセマ(Iracema, Uma Transa Amazonica』を彷彿とさせたし、オープニングの夜の街明かりのシーンではパトリシオ・グズマンの『光のノルタルジア』(これはチリ人のドキュメンタリー作品)&のエンディングを思い出した。お尋ね者殺人鬼のLungaも、きっと他の映画にモデルがいるはず。テレサのお相手役の男性は、たぶん関係ないけれど、『サラームボンベイ』のババ役にそっくりだ。そんなことには全くお構いなく、ただの映画としてもストーリーも作りも痛快で娯楽性もバッチリあるのだが、今のブラジルの現状を考えながら見られたら、きっとさらに感銘を受けるのでは、と思いマス。

*サードシネマとは、革命のラテンアメリカで60−70年代に沸き起こった映画のムーブメントかつ理論で、ハリウッドをファーストシネマ、ヨーロッパのアート映画をセカンドシネマと捉え、その2つに対抗しながら別の形で存在しうる映画のあり方を模索したもの。80ー90年代にUCLAでマイノリティに自己表現としての映画制作を教えていたエチオピア人の教授Teshome Gabrielにより理論として復活され、米英の黒人監督やアジア系監督にも大きな影響を与えた。

YouTubeチャンネル+日本短編部門公募開始

UPAFこと宇野港芸術映画座、今年10周年を迎えます。それを記念して?今回から日本映画短編特集を公募で始めることになりました。応募要項とエントリーフォーム、スタッフの柳川みよちゃんが作ってくれました。長さが30分以内の短編で、UPAFのテーマ「生きる、創る、映画」に合っていて、日本や日本人が主に登場する、または日本で制作された、または日本に関する作品なら、製作年やジャンルは問いません。ご応募お待ちしています。これから公募サイトにも載せるつもり。日本で映画制作している皆さんは、どこでこういう公募情報をゲットしているんだろう。情報あったらお知らせください。

それと、やっぱり10周年を記念して?UPAFチャンネルも開設しました。まずはこれまでのUPAFの軌跡を裏話を混ぜながらたどって、そのあとは今後UPAFで上映できたらな、という映画や、おすすめの映画などについてお話ししていく予定です。最初のうちはスタッフのたっちゃんと西やんが主に出演、他のスタッフもゲストで参加です。共同主宰で私の相棒マックスが編集してくれています。第1回が上のリンクで、第2回第3回まで上がってます!皆さま、チャンネル登録(Subscribe)と通知オン、よろしくお願いしま〜す。

今は世界中コロナウイルスで本当に大変。私が教えるニューヨーク市立大もすべてオンライン授業に今週から切り替わるので、準備に追われています。うまくできるのかな。それもまたご報告しますね。イタリアや中国、イランからの生徒や元生徒もいるので、みんな安全に健康に過ごしていて欲しいです。

UPAFを始めたきっかけ

2010年から、岡山県玉野市の宇野港で、宇野港芸術映画座(Uno Port Art Films、通称UPAFウパフ)という夏の手作り映画祭を、夫で相棒の上杉幸三マックスと共同主宰している。2016年まではほぼ毎年、その後は疲れすぎるので(笑)2年に1回に切り替えた。ニューヨークのブルックリンに住んで28年、いろいろな仕事を経て、過去10年くらいは、ニューヨーク市立大ハンターカレッジの大学院(MFA in Integrated Media Arts)とニューヨーク大学の学部(School for Professional Studies)でドキュメンタリー史やら中南米・アフリカ・アジアの映画などを非常勤で教えながら、それだけでは食べられないので、翻訳や通訳の仕事をして生きている。自分たちで映画の自主制作も細々だけれど続けている。

UPAFを始めたきっかけは、夫婦2人の間で少し違うみたいというのに後から気づいた。私の理由は、26年来の相棒のマックスが故郷の宇野で宿泊業を始めたので、その街と彼の新しいアドベンチャーを盛り上げたい気持ち、それと、私は長年ニューヨークという世界中からの映画が見られる街に幸運にも住んでいるので、自分がとてもいいと思った作品で日本に届きにくいものを自力でお届けしようという気持ち、その2つかな。地価の高いこの街に一世移民として住み続けるのは決して楽ではないけれど、私は今でも多様な人が混在するこの街が大好き。そして私が今この瞬間にここにいるのは、育ててくれ教育をくれた両親も含め、いろいろな人のサポートがあってのことなので、それに感謝しつつ、何かお返しができれば、と。敬愛する先輩がいつか言った言葉があって、彼が私を支援してくれるのにお礼のしようがないと言ったら、サポートが必要な他の人に何かしてあげてください、と言われた。その言葉をいつも念頭に生きています。

このブログは、もっと前に始めるべきだったのだけど、思い立ったが吉日で始めます。中学生時代以来ずっとUPAFを手伝ってくれている娘も昨年大学を卒業して独り立ちしたので、私も今後はやいたいことをどんどんやっていかないと。私がニューヨークですてきな映画や人に出会ったりして思うつれづれを、シェアできたらと思っています。

先日は東北大震災から9周年でした。そして今は、日本もアメリカも世界も、コロナウイルスで不安が募る毎日です。いろいろなことが解決しないままに、でも皆一生懸命生きていくより他ありません。皆さま心穏やかに、つながりつつ、一緒に乗り越えて、夏にはまた、いい作品を一緒に観てお話できる日を楽しみにしています。

ブルックリン奥地での自粛生活のつれづれ

少し時間が経った間に、日本も全国で緊急事態宣言になってしまった。8月の10周年記念UPAF、開催できるかな。人間、希望が必要なので、日本にいるマックスとのほぼ毎日のLINE会話では、今のところはやる方向で進めようということになっている。 今日は映画とは関係ない話になると思う。...